さぬきの歴史

志度寺の歴史を調べようとしたら、日本史の全ジャンルの勉強が必要でした。

納骨信仰と葬送実務

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平安時代から少なくとも鎌倉時代前半にかけて、今日のような葬式はなかった。

天皇を例外とすれば古くは墓もなかった。庶民だけでなく、貴族もそうである。

 

高野山への納骨の初見は1153年(仁平3年)の御室(おむろ)門跡覚法法親王とされる

 1160年(永暦元年)には鳥羽上皇の寵妃美福門院の遺骨も遺言により高野山に運ばれている

吾妻鏡』での墓参は1241年(仁治2年)から3回出てくる

 

 京の貴族の史料に盂蘭盆(いわゆるお盆)の墓参が現れ始めるのは鎌倉時代中期である

藤原氏の木幡のような一族の墓地は、藤原摂関家以外では村上源氏ぐらいで平安時代後期にはあまり例が無く、鎌倉時代以降に広まる

 

発端は986年(寛和2年)に比叡山の高僧である源信僧都が始めた僧の念仏結社二十五三昧会に始まるとされる。 この当時は葬送は家族だけで行うことで他人が関わることは禁忌とされ、それは僧の世界でも変わらなかった。 しかしこの結社内だけは世俗の禁忌を考慮せずに結衆が死ねば結社が協力して葬送を行うことを宣言する。 この二十五三昧は主に天台宗系の寺院で広がる。 そしてその二十五三昧の墓所は結界の地であり聖地である。 12世紀初頭にはその二十五三昧会に貴族の一部も入会しだす。 この二十五三昧が12世紀後半の共同墓地出現の契機とも考えられている。 この二十五三昧が転じた「五三昧」が墓地を現す例も12世紀中期、遅くとも13世紀前半には見られるようになる。 ただし、共同墓地が広まり始めるのは近畿でも13世紀後半、本当に広まるのは14世紀に入ってからである。

 

志度寺にある「海女の墓群」は、縁起では、「693年に房前が十基の石塔を建て、

母の追善供養をした」とあるが、当時はまだ、石塔を建てたり、追善供養をしたりする

習慣はなかったことになる。

これらは鎌倉時代以降に行われるようになったことで、石塔も鎌倉時代以降に造られたことになる。

 

石塔も初見ということでは古く遡れるが、石製の五輪塔宝篋印塔東大寺大勧進重源によって招聘された宗人石工伊行末らの末裔達によって作られはじめる] 当初伊行末らは奈良・京都の大寺院再建に従事していたが、その末裔達はそうした大寺院の大勧進として工事を指揮していた律宗僧に率いられて全国に広がる。 五輪塔や宝篋印塔が大寺院だけでなく上流階級の墓所にも広まり始めるのは全国レベルでも13世紀からで、浸透したのは14世紀以降である南関東に限って見ると安山岩製の五輪塔・宝篋印塔は1290年代から始まる。 そして1330年代に小ピークを迎え、1380年代から1440年代にかけて最盛期を迎えてそれ以降は低迷する

 

伊行末 - Wikipedia

 

真言律宗 - Wikipedia