庭園
志度寺の庭園は曲水式庭園と言われ、当時讃岐の守護で室町幕府(1336~1573)の管領だった細川氏によって寄進され、細川勝元の時、完成したと言われています。
庭の入り口にある立て札には文明5年頃とありますが、
文明5年(1473) 3月18日 山名宗全 (応仁の乱西軍大将)
5月11日 細川勝元 (応仁の乱東軍大将)が亡くなっています。
応仁の乱(1467~77)
昭和21年の南海地震で荒廃していたのを古代庭園の権威、重森三玲氏が見いだし、氏の手により、十年の歳月をかけて、昭和37年に復原しました。
敷地は3300平方メートル。
志度寺本尊の十一面観音菩薩の浄土、「補陀洛山」を表し、庭の中央にあるらせん状の石組みは十一面観音の頭上の十尊を表わしているそうです。
志度寺の曲水庭園について詳しく書いたサイトを見つけました。
http://www.musokokusi.com/teienn-sidoji.htm
地割こそ室町時代の曲水式様式が残っていたが、庭園の石組みはほとんど残っていなかった。
そのため、重森は地割はそのまま残し、岩組みは細川式の曲水式の庭園である旧秀隣寺、北畠神社、保国寺(西条市)を
参考として護岸石組み、豪華さを総合的に表現した武家好みの庭を再現した。
曲水庭園の護岸は延、約330mにもなり、用いられた青石は約240石。
②「東部池庭」中央の巨石群は螺旋状に石組されている。これは北畠神社の石組みを参考にして新たに創作した庭。
③「書院前庭」志度寺縁起をテーマとした枯山水の庭「無染庭」
曲水式庭園とは、曲水の宴を行うための庭で、
曲水の宴とは
「三月初めの己の日に水辺で穢れを祓う、という上巳の水辺の祓い」と共に中国から伝わり、水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、「流れてくる盃が通り過ぎるまでに詩歌ができなければ、罰として盃を飲ませる」という遊びで、水路が蛇行しているのが特徴です。
日本では顕宗(けんぞう)天皇元年(485年)3月に宮廷の儀式として行われたのが初見です。(『日本書紀』6)
文武天皇以降史上に散見するようになり、奈良時代にはこれらの行事は3月3日が常例となり、奈良時代後半には盛んになり、主に宮廷の催し事(主催者は天皇)として行われたが、平安時代には宮廷や貴族の邸宅などでも行われるようになっていました。
曲水式庭園は全国にあり、
岡山後楽園、金沢兼六園、鹿児島県仙巌園(せんがんえん)が有名ですが、これらは江戸時代の大名庭園です。
京都松尾大社の曲水の庭は昭和49年(1974)重森三玲氏によて造られたもので、3月3日に流し雛が行われている。
同じ京都の賀茂御祖神社(かもみおや)(下賀茂神社)でも流し雛が行われている。
曲水の宴で有名なのは、京都市伏見区の城南宮(じょうなんぐう)と京都北区の賀茂別雷神社(かもわけいかづち)(上賀茂神社)
2005年の志度寺庭園写真
以下は、細川高国の庭園
五重塔
竹野二郎氏が私財3億円を寄進、3年3ヶ月の歳月をかけ
昭和50年(1975)5月18日落慶。
着工 昭和48年 竣工 昭和50(1975)年5月
木造 本瓦葺 高さ 33m
総桧造り
(1348年竣工 高さ29.1m)
四国88カ所では他に
五重塔とは、五層の仏塔のことです。
五重の屋根がある層塔とよばれるものです。卒塔婆と同様に、
下から地(基礎)、水(塔身)、火(笠)、風(請花)、空(宝珠)からなるもので、それぞれが5つの世界(五大思想)を示し、仏教的な宇宙観を表しているといいます。
塔はストゥーバとも言われ、もともとは釈迦の遺骨を奉安するために建てられました。
もともとは伽羅の中心的な存在でしたが、やがて回廊の外に建設されるようになります。平安時代には多くの仏塔が建設され、巡礼することで功徳を積む行も人気がありました。
初層は,四天柱を四隅とし,内陣といわれる部屋に,仏像,壁画などを安置する。2層以上は中空で,部屋を構成していない。最上層の屋根は中心に相輪を立て,宝珠,水煙,九輪などで飾られている。
納骨信仰と葬送実務
平安時代から少なくとも鎌倉時代前半にかけて、今日のような葬式はなかった。
天皇を例外とすれば古くは墓もなかった。庶民だけでなく、貴族もそうである。
高野山への納骨の初見は1153年(仁平3年)の御室(おむろ)門跡の覚法法親王とされる
1160年(永暦元年)には鳥羽上皇の寵妃美福門院の遺骨も遺言により高野山に運ばれている
『吾妻鏡』での墓参は1241年(仁治2年)から3回出てくる
京の貴族の史料に盂蘭盆(いわゆるお盆)の墓参が現れ始めるのは鎌倉時代中期である
藤原氏の木幡のような一族の墓地は、藤原摂関家以外では村上源氏ぐらいで平安時代後期にはあまり例が無く、鎌倉時代以降に広まる
発端は986年(寛和2年)に比叡山の高僧である源信僧都が始めた僧の念仏結社二十五三昧会に始まるとされる。 この当時は葬送は家族だけで行うことで他人が関わることは禁忌とされ、それは僧の世界でも変わらなかった。 しかしこの結社内だけは世俗の禁忌を考慮せずに結衆が死ねば結社が協力して葬送を行うことを宣言する。 この二十五三昧は主に天台宗系の寺院で広がる。 そしてその二十五三昧の墓所は結界の地であり聖地である。 12世紀初頭にはその二十五三昧会に貴族の一部も入会しだす。 この二十五三昧が12世紀後半の共同墓地出現の契機とも考えられている。 この二十五三昧が転じた「五三昧」が墓地を現す例も12世紀中期、遅くとも13世紀前半には見られるようになる。 ただし、共同墓地が広まり始めるのは近畿でも13世紀後半、本当に広まるのは14世紀に入ってからである。
志度寺にある「海女の墓群」は、縁起では、「693年に房前が十基の石塔を建て、
母の追善供養をした」とあるが、当時はまだ、石塔を建てたり、追善供養をしたりする
習慣はなかったことになる。
これらは鎌倉時代以降に行われるようになったことで、石塔も鎌倉時代以降に造られたことになる。
石塔も初見ということでは古く遡れるが、石製の五輪塔や宝篋印塔は東大寺大勧進重源によって招聘された宗人石工伊行末らの末裔達によって作られはじめる]。 当初伊行末らは奈良・京都の大寺院再建に従事していたが、その末裔達はそうした大寺院の大勧進として工事を指揮していた律宗僧に率いられて全国に広がる。 五輪塔や宝篋印塔が大寺院だけでなく上流階級の墓所にも広まり始めるのは全国レベルでも13世紀からで、浸透したのは14世紀以降である。 南関東に限って見ると安山岩製の五輪塔・宝篋印塔は1290年代から始まる。 そして1330年代に小ピークを迎え、1380年代から1440年代にかけて最盛期を迎えてそれ以降は低迷する。