志度寺の歴史と由来
補陀洛山(ふだらくさん)志度寺
開基藤原不比等
志度寺は、寺伝によると、推古天皇33年(625)、(讃岐国造)凡薗子尼が、志度浦に流れ着いた霊木で十一面観音像を彫り、
お堂を建てたのが始まりと言われています。
その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻(海女)の墓を建立し、「志度道場」と名付けられました。
その後、房前が行基と共に母の供養に訪れて、お寺を拡張し、栄えました。
しかし、八世紀までに建立された寺は、東大寺や国分寺のように官寺という公の寺であり、
伽藍配置の規模が小さく、礎石や古い瓦なども発見されていないところから、志度寺の創建は
平安時代前期の9世紀末ごろと推測されます。
平安時代後期には、最も盛大であった志度寺の他に鴨部に長福寺・西光寺(M2年廃寺)
西方寺(貞享2年鴨庄に移転)が建てられ、それぞれ真言宗の寺院として発展したと言われています。
1185年の屋島源平合戦の折には、屋島での戦いの翌日、志度寺に敗走してきた平氏と源氏の戦いが
ありました。
細川頼之は前時代からの寺領である「天野村」を引き続き寄進し、頼常のときには
7か条にわたる禁制を設け、
書院や庭の築造にも手をのべました。
戦国時代に荒廃。
能楽「海士(あま)」の舞台としても語り継がれています。
無染庭(むぜんてい)枯山水
京都竜安寺の「枯山水」(水を用いず、石、白砂、植栽などで山水を表す庭園様式)を参考に造った。
志度寺縁起の海女の玉取物語をテーマに7個の石を配置し、真ん中の細い石と岩島(がんとう)で、
海女の上がった真珠島と淡海公が乗っている船をかたどっている。
庭には7個の石が置かれているが、見る場所によって、一つ又は、2つの石が隠れる仕組みになっていて、
海女が珠を乳房の中に隠したという物語を表現していると言われる。
京都竜安寺は、細川勝元創建と言われ、細川勝元は、室町幕府管領で、讃岐の守護でもあった。
宝徳2年(1450年)、平安時代の貴族德大寺家の山荘を、室町幕府の管領だった細川勝元が譲り受け、
妙心寺の義天を開山に招き創建された。
本堂・ご本尊
国の重要文化財
初代松平頼重公により再建されました。
県内最大規模の入母屋造りの本堂です。
本堂内部の厨子には葵の紋がついています。
御本尊十一面観音菩薩様が安置されています。
毎年7月16日が御開帳の日で、御本尊と脇侍(きょうじ)の不動明王と毘沙門天様を間近で拝見させていただけます。
十一面観音立像
人々を11の苦しみから救い、仏果を得させる功徳があります。
人々のお願い事を東奔西走してかなえさせてくださいます。
ご本尊をお守りしている仏様。
天台宗に多い並び。
法相→天台→浄土→真言宗
国の重要文化財(脇侍とも)
本尊、十一面観音立像は縁起では楠としているが、実際は桧の一木造り。
像高1・46m
衆生の十一の苦しみを転じて仏果を得させる。
台座の蓮肉以下光背、宝瓶(ほうびょう)はあとから補作している。
縁起文では625年となっているが、平安時代前期作と思われる。
脇侍不動明王78cm
毘沙門天79cm
本堂は寛文11年(1671)松平頼重建立。
国の重要文化財
志度寺本尊、近江国長谷寺本尊、大和国長谷寺本尊の三体は、白蓮華谷から流れ出た一本の霊木で作られたと、あちらの縁起にある。